秋葉原通り魔事件に関して抱いた疑問 - Fiat logos
マスコミだけが報道行為を行っていたらこの考え方は絶対俺からは出てこない
普段と違う入力により自分の精神構造の未知の部分のマッピングが行える
マスコミと市民という記号が変わっただけでこれほどまで考え方が変わるなんていうのは面白い
今までに無い入力に対してどんな出力が出るかによって自分の精神構造の凡庸性やゆがみに気付けるのだと思う
自分がどのレベルで物事の本質を見ていないか、どのレベルで物事をラベル化コンポーネント化しているか
マスコミという存在についてどれだけの決め付けと考察を行ってどれだけ思考の省略を許しているか
こういう自分探しというのは面白い

秋葉原通り魔事件に関して抱いた疑問

元々は秋葉原通り魔事件について何も書く気が無かったし「自分が秋葉原通り魔事件について無意識的に何かを書く気が起きない」のは何故かと言うのも考察せずにだらだらとネットをしていた


http://recently.sakura.ne.jp/wp/?p=41を読んでいて
通り魔事件を配信したという記事に対してコメント欄に不謹慎だとするコメントを読んで何か心にもやもやとしたよく分からない状態が生まれた
何がそのもやもやの原因なのかを考えた


多分

  • 今回の通り魔事件にネット上で関われば何らかの満足をこの通り魔事件から引き出す事になりそれがログとして残る

という認識が俺にあるのではないかということ


現場からストリーミングだろうがブログで考察を書こうがストリーミングした人をブログのコメント欄で叩こうがTwitterで話そうが
何らかの手法で通り魔事件にコミットしたら私たちは通り魔事件から何らかの"満足"を引き出してるって事じゃないか?
勿論テレビで報道を見たり人に事件の概要を聞いたり話したり新聞で見る事だって「通り魔事件から何らかの満足を引き出す行為」と言える
ネット上でコミットする事で「通り魔事件から何らかの満足を引き出す行為」のログが残ることを私は恐れたのだと思う


偽善的潔癖だなー、他のなにがしかの不幸について無数の満足を引き出してきたはずなのにそのうちの一つについて潔癖な態度を取るっていうのも「通り魔事件から何らかの満足を引き出す行為」、それを自認して自分の精神構造についてまた一つ考察が進んだとするのも「通り魔事件から何らかの満足を引き出す行為」、自分が自分の行動をメタ認知している事に気づくのも「通り魔事件から何らかの満足を引き出す行為」、
「通り魔事件から何らかの満足を引き出す行為」を行っている事を自認しているのも「通り魔事件から何らかの満足を引き出す行為」、以下無限退行、無限退行を認知する事も「通り魔事件から何らかの満足を引き出す行為」


「Ustで現場中継」だって「通り魔事件から何らかの満足を引き出す行為」だし、「Ustで現場中継した人を貶す」だって「通り魔事件から何らかの満足を引き出す行為」なのだから上記の行為と本質的に差は無いと考える
だって通り魔事件から何らかの満足を引き出しているんだから
この考え方はナイーブに過ぎるの?じゃあどんな考えが無神経な考え方なの?ちょうど良い考え方って何なの?
どこから許されないの?どこから許されるの?どこまで正しいの?どこから正しくないの?それを決めるのは誰?

公表された言論が批判の対象となる理由

2008-06-06を読んでいて

”公表された言論に対しては批判の対象となる、という単純なルールがある”ちょいちょい見かける意見だけど、その根拠を聞いたことはない。仮にそうだとしても、ネットが一般化した今においてはカビが生えたルール。
はてなブックマーク - rag_enのブックマーク / 2008年6月6日

というブクマコメを見つけてこれを考えるの面白そうだなーと思って考えた結果を書いてみる


短いブクマコメだとどの意味かを確定できないのだがとりあえずこのブクマコメが表す可能性のある命題をいくつか立ててみる

命題1

公表された言論が批判の対象に"なりうる"という意見の根拠を示せ

命題2

公表された言論が批判の対象に"なるべきだ"という意見の根拠を示せ

命題3

公表された言論が批判の対象に"なるべきだ"という意見の根拠はインターネット成立以前の前提から導き出された物であり、インターネット成立後の前提からは公表された言論が批判の対象に"なるべきだ"という根拠を導き出す事は出来ない

これのどれかだと思うのでそれぞれについて考えていく


命題1
公表された言論が批判の対象に"なりうる"という意見の根拠を示せ


まずこの命題から
公表された言論が批判の対象に"なりうる"というのは間違っている
万物理論からは公表された言論が批判の対象に"なりうる"というのは証明できないだろうからだ
反例を上げる事も簡単だ
これまでに公表された言論が1つ以上無いと言う状態を考えればそれに対する批判はあり得ない(だって公表された言論が1つしかないんだから!)
また批判を言論として公表しない場合でも全人類の脳みそに批判言論抑制チップでも埋め込めば批判はあり得ない
そんな馬鹿げた仮定に意味はないって?
でも「公表された言論が批判の対象に"なりうる"」という状態は物理的に可能だ
この世で誰かが断言している言葉は物理的に可能かどうかでその真偽を判定されない
じゃあ私たちは何をもって命題が正しい、正しくないと判断しているのか?
その命題のもつ前提の確度と前提と結論の論理的な結びつきの強さだろう
で、前提の確度がどの程度であるかによって人は命題を正しいか正しくないかを判断する
その命題がどの程度の確度を持てばそれを正しいと判断するかは人それぞれ
共有できるのはその命題が持つ前提と前提の確度と前提から命題の真偽を判定するまでのプロセス
この考えを元に先ほど書いた命題についてそれぞれどの程度の前提の確度なのかを考えて行く

命題1

公表された言論が批判の対象に"なりうる"という意見の根拠を示せ


さてこの命題1の前提とその確度はどんな物なんだろう
公表された言論が二つ以上存在する事を前提とすれば命題1は正しいとしてかまわないと思う
聖書から人類滅亡の時期と理由を100万通りは生成出来る事から考えて公表された言論が二つ以上存在すればそれらがどれほど無関係でもそれぞれに対する批判を"発見"する事ができる(それが例え珪素生命体の哲学書と新聞の折り込みチラシの一文だろうと!)
と言うわけで
前提 公表された言論が二つ以上存在する
そして前提の確度はどれだけ現実に対応しているかで計る
例えばこの命題1の前提で言えばそれを覆すためにどれだけの非現実的(コスト・確率・前提において)な仮定を設定しなければいけないかで決定される
人類全員にチップを埋め込むだとか公表される言論は人類未来永劫ただ一つとか

命題2

公表された言論が批判の対象に"なるべきだ"という意見の根拠を示せ


これのもっとも確度の高い前提は何だろ?
公表された言論は常に現実に対する実行力を含む可能性があるので「批判は"なされないべきだ"」という前提を認めた社会では全体に不利益をもたらす言論が影響力を持つ可能性が跳ね上がるから?
さらに言えば批判がなされるべきかどうかを一つ一つの言論について判断する事そのものも批判と取れるからどうしようもないよなー
絶対王政とか独裁国家だとこの前提が覆るので命題1よりは確度が低いかなー、今の日本だと"なるべきだ"に限りなく近いかな?

命題3

公表された言論が批判の対象に"なるべきだ"という意見の根拠はインターネット成立以前の前提から導き出された物であり、インターネット成立後の前提からは公表された言論が批判の対象に"なるべきだ"という根拠を導き出す事は出来ない


さっきの命題2の前提がネットの出現で覆るか前提の確度が弱まるのかという話
インターネットは原理的に01の信号をハードウェアの制限以上の制限を加えずにどんな情報でも送る事が出来るものだから
公表の定義によっては出来るかもなー、でもそれは元記事の

互いに批判*1をする/されるの自由がネットという公開の場で、それがいやだったらソーシャルネットワークとかのクローズドなコミュニティに潜り込みなさい、という話になる。
2008-06-06


と言う話だしなー
ネットが命題2の前提を覆すという論理を思いつく事が出来ず。。。。

多分ネット時代においても命題2は反駁されないと思う

プログラマの妙術

注)HelloWorld書いたことあるぐらいのプログラミングやIT業界に関しては聞きかじりの餓鬼の遊びです、どうぞ気を悪くしないでください

http://reijifur.main.jp/neko.html
http://www.google.com/search?q=cache:JArg0XQ2A2UJ:reijifur.main.jp/neko.html+http://reijifur.main.jp/neko.html&hl=ja&ct=clnk&cd=1&gl=jp
何故かアクセスできないのでGoogleキャッシュも

猫の妙術という、武道における到達目標を段階分けし各段階のねずみ取りの猫に例えて書いた寓話
何か技能以上のものをその系に含むもの(プログラミングとか武芸とか)なら何にでも応用できそうだったのでプログラマバージョンで書き換えてみた

プログラマの妙術

ある会社に大きなプロジェクトがあって日々奇々怪々に成長したのでPMはプログラマを部屋に詰め込んでプロジェクトを終わらせようとした。
しかしそのプロジェクトはプログラマの面に飛びかかりあるいは、泥のようにしたのでプログラマは鳴き声をあげて逃げてしまった。
しかたなくPMは、ネット上から抜群に強そうなプログラマを集めて来て、タコ部屋に追い入れたもののすべて尻込みしてしまい、誰一人としてプロジェクトを完了させようとしない。

PMは大汗を流しながら、部下を呼ぶと大声で言った。
「六、七リンクを辿った先に、並々ならぬプログラマがおると聞いている。すぐに借りてきなさい」
早速、借りてきたプログラマを見れば、あまり利口そうでもない。が、かの部屋に入れると、例のプロジェクトは身をすくめてしまって動かない。プログラマは何事もなげに、のろのろとクライアントのそばへ歩み寄ると、難なくプロジェクトを終わらせて戻ってきた。

その夜のことである。

かのプログラマのブログに多くの若きハッカーどもが集まり、かのプログラマがエントリーを立て、いずれのプログラマどもも、その前にひ

ざまずくとブログにコメントした。

「われわれは抜群のプログラマを称賛され、その道の修行を積み、スキルも磨いて研鑽してきた。
しかしながら、いまだ今日のような強大なプロジェクトに出会ったことはなかった。それを御貴殿は、何の術をもってか簡単に終わらせてしまったが、願わくば、我らにもその妙術を教えていただきたい」

すると、プログラマは静かに笑って言った。

「若いハッカーのみなさん。みなさんは、一生懸命に働かれたではありませんか。ただ、思わぬ不覚をとられたのは、いまだ正しい道理にかなった技法をご存知でないからでありましょう。まずは、みなさんの修行のほどから、お聞きすることにしましょう。」

プログラマの言葉に、鋭い顔つきのハッカーが一人、前にすすみ出て言うには、私はプログラムを書く事に優れ、以来その道に心掛けてきた
。最も適切なライブラリやAPIを鋭く見抜き、パフォーマンスと安全性と保守性のバランスのとれたシンプルで美しいプログラミングをし、正規表現、メタレベルプログラミングを得意とし、ときには、仕事自体を無くす様な構造に変え、極限まで自動化し、一度として自分の仕事を遅延させたことはなかった。
ところが今日、思いの外のプロジェクトに出会って、一生の不覚をとり、はなはだ心外に思っている、と。

聞いて、古猫は口を開いた。

「ああ、あなたの修行は技法第一主義というもの。したがって狙う心が先に立っているのです。昔の人が技法を教えたのは、その道筋を教えんがためで、ゆえに、その技法は容易ではなかった。その中に深い真理があるのだが、今日では技法だけを専らにし、ために種々の技を創り、技巧をきわめるので、単なる技くらべになってしまった。それでは、技巧が尽きれば、どうにもなりますまい。小人が技巧に走り、才覚に溺れると、すべてそのようになろう。心の働きといえども、道理にもとづかず、巧を専らとするときは、かえって害の多いもの。これを反省して、よくよく工夫することでしょう」
 

次に、髭のハッカーが一人まかり出ると言った。私の思うに、プログラミングでは”結果そのもの”を貴びます。ゆえに、良い結果を出す事を第一の目標としてきた。そのため今はその気力も固く強く、天地に充ちている。マッチョでもってクライアントと交渉し、まず最大限の力を出せる場を作り出して後すすみ、好きを貫き、響きに応じ、変化にも応じることができる。
仕事をするにも意識せずして、自然にコードが湧き出るごとく振る舞うことができ、チームを纏めるも可能だ。
ところが、彼のプロジェクトは結果の出しようがない。これはどういうことなのでありましょうか。


プログラマがゆうには、その修練は、気の勢いによって働くものでしかない。つまり、自らの気力をたのみとするもので、最前のものではない。われ破らんと欲すれば、敵もまた破ろうとしてくる。また破ろうとして破れぬもののあったときはどうするか。
決して己だけが強く、敵はみな弱いというものではない。天地に充がごとき気と思っているものは、すべてうわべだけの勢いでしかない。それは孟子の浩然の気と似て、実はまったく相違するものなのだ。孟子はよく見える目を持ち、物事を見分ける知力を備えて剛健だが、あなたのは勢いに乗じた剛健であるから、その効果のほどもまた同じではないのだ。
たとえば、滔々と日夜流れる大河と、一夜の洪水の勢いとの違いというもの。気勢に屈しない敵があるときはどうするのか。俗に”窮鼠猫を噛む”のたとえもある。そのような敵は、必死になり、生命を忘れ、欲を忘れ、勝負を度外視し、身の安全など心中になく無心である。こうした敵に、勢いだけでどうして勝てようか。


古猫の話しが終わると、灰色の少し年を経た猫が静かに前へ進みでて質問した。
「仰せのとおり、結果を求める心は旺盛ではあってもそれにはゼロサムゲームの前提があり、その前提を持つものは微小であっても見えるもの。私は長く心を鍛練して、気勢をなさず、相争うことなく、何事もWin-Winの関係に作り変えてきた。強大なプロジェクトといえども、私に敵しようとしても相手ではない。ところが今日のプロジェクトは、勢いにも屈せず、和にも応じず、まさに神のごとくで、私はいまだにこのようなプロジェクトをみたことがない」


灰色の老猫の話しに、古猫は答えた言った。
「そなたの和は自然の和ではなく、論理的な和であり、したがって気をはずさんとしても、僅かな妄念が生じれば、敵はそれを知るのである。また、私心をはさんで和をなせば、気は濁って惰してしまうものだ。思い考えてなせば、なにごとも自然の感をふさいでしまうため、妙手はどこからも生じない。ただ、思わず、なすこともなく、感にしたがって動けば生ぜず、天下に敵すべき者はいなくなる。
とはいえ、各々が修行するところのものを、すべてが無用のことというのではない。
気のあるところ必ず理があり、理のあるところ必ず気は離れずにあるから、動作の中に理に至るものはあり、気はまた一身の用をなすものである。その気がおおらかなるときは、物に応ずること無窮(むきゅう)で、和する場合は、力をもたずして金石に当たろうとも、けっして折ることもない。わずかに思考することが、すべて作意となってしまうのだ。ゆえに敵する者は心服しない。

なんの術をも用いる必要はない。ただ無心に、自然に応じられるがよかろう。道には極まるところはないから、私のいうところをもって至極と思ってはならない。

昔、私の郷に一流のひろゆきがいた。終日眠っていて気勢もなく、木で作った猫のようであった。
人々も、そのひろゆきが仕事をするのをみたことがなかったが、そのひろゆきの関わるところ、近辺にデスマの姿を見ることはなかった。
そこで、私はそのひろゆきのところへ行き、その理由を質したのである。が、そのひろゆきは答えず、四度も問うたが、四度とも答えなかった。これは答えなかったのではなく、答える理由がなかったのであった。
それでわかったことだが、真に知るものは言わず、言うものは真を知らないものだ。その者は己を忘れ、ものを忘れて無物に帰していたのである。まさしく”神武にして不殺”というものであった。私もまた彼に、遠く及ばなかった」

後書

古猫の他の猫に対する答えはほとんどそのまま、何か技能以上のものをその系に含むもの(プログラミングとか武芸とか)ってにてるなーと思って書いた
最初の鋭い顔つきのハッカーは技法第一主義=狭義のライフハッカーとして書いた
文章はここから引用改変させていただいたプログラマが他のいかなる職業とも決定的に異なる理由は「誰にでもできるつまらない仕事」の生産性にある - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだ
次の髭のハッカーは独我主義というか狭義のマッチョと言うか悪いイメージの方のマッチョ
灰色の老猫の境地はまだちゃんと理解しきれなくて具体例も思い浮かばないのでああなったがもう少し良い文面もあったと思う
古猫のイメージは天才
木で作ったような猫のイメージは一流のひろゆき
一流のひろゆきはこのエントリーでいう匿名掲示板でしか対立を解けないような種類の対立の世紀と21世紀の政治を妄想的に予想する - アンカテプログラマバージョン

これをどうにかできるのは、アインシュタイン級の1世紀に一人か二人の天才で、科学でなく政治の分野で同レベルの天才だろう。

21世紀には、そういう方面での天才が必要とされている。

そして、私は、ひろゆきという人は、ここで必要性を訴えているその「天才」に最も近い人物だと思っている。

もちろん、今のひろゆきそのものが、将来現れるだろうこういう難題を解決するかどうかはわからない。たぶん、それは無理だろう。

ただ、その「政治の天才」が出てきたとしたら、ひろゆきよりもっと「ひろゆき」的な人物ではないかと予想する。「なんだ2ちゃんねるひろゆきは『ひろゆき』としては二流の『ひろゆき』だったな、本物の『ひろゆき』とはこいつのことを言うんだな」と思わせるような、もっと「ひろゆき」的な何か。
匿名掲示板でしか対立を解けないような種類の対立の世紀と21世紀の政治を妄想的に予想する - アンカテ

中間搾取と最適化の為の投資の違いは?

http://www.mypress.jp/v2_writers/beep/story/?story_id=1735012を読んでつらつらと考えた事
日本ユニセフ協会が最貧国へ子供たちの支援の為の募金を無駄な事に使っているので日本ユニセフ協会への募金をやめましょー赤十字の方が良いよ、と言う記事

日本ユニセフ協会への募金に反対します

一円でも多くの現金が必要な「最貧国の子ども達への募金」を
ダイレクトメールの費用や高額な宣伝・光熱費として使い込んでしまう組織への募金に反対します。
http://www.mypress.jp/v2_writers/beep/story/?story_id=1735012

この部分には同意
人々から善意で得た寄付金を不必要な運用費に当てるのは確実に悪

Webというのは、「中間搾取を行う組織をバイパスする」為の強力な能力を持つのです。募金は必要ですが、中間搾取は取り除かなければなりません。
http://www.mypress.jp/v2_writers/beep/story/?story_id=1735012

国際連合児童基金から「UNICEF親善大使」に任命された黒柳徹子は、日本ユニセフ協会とは別に口座を設け[7]、国際連合児童基金向けの寄附金を募っている。黒柳と交流のあるテレビディレクターの田川一郎によれば、黒柳は「頂いた募金は一円も無駄にしないで現地に届けたい」[8]との思いから、日本ユニセフ協会とはあえて一線を画して行動しているのだという。さらに、寄附金の受付窓口を日本ユニセフ協会に一本化するよう持ちかけられても、黒柳は前述の意向から拒否しているという
日本ユニセフ協会 - Wikipedia

Wikipediaにも同じ意の記述もあるし日本ユニセフ協会の非効率性(と言うより寄付金の経路の迂回に依る非効率性)に関してはそうなのだと思う(wikipediaの特性と一般の人への日本ユニセフ協会の真実を周知するという編集者の意図を差し引いてもそう取るのが自然だと考える)

私達が求めているのは「一円でも多くのお金を現地に送る事」です。

だが俺はこの箇所に対してのみ全面的に賛成する事が出来ない
日本ユニセフ協会に関する事例を元に「一円でも多くのお金を現地に送る事」の是非を考えるのならばその通りであると思う
俺は募金やそれを取り扱う組織の現状について無知なのでそれらの組織における内情を元に考えれば、援助組織においては「一円でも多くのお金を現地に送る事」のみが実質的な援助組織の評価を下すための唯一のパラメーターである、という段階なのかもしれない
(それこそ日常レベルの物理現象を相対性理論を用いて解こうとするような神経質な阿呆な突っ込みであるとも思う)
寄付で集めたお金を現地に送らず非効率的な運営費に回している組織を批判するための適した文章でもあるとも考える
前後の文脈から切り離さずに読めばそう思う


が、原理的に考えればそうじゃない
その言葉は「一円でも多くのお金を現地に送る事」すらしていない下を批判とともに「貧困国の人々の豊かさを最大限に上昇させるための手段の考案と実行に最適な費用を使用している」上に対する言葉にもなると思う

関係あるかどうか分からなけど思い出したので貼っておく
中間搾取の話で連想
JASRACがアーティストから搾取しているという誤謬 - P2Pとかその辺のお話@はてな
慈善活動の効率性で連想
負けず嫌いの慈善 - アンカテ

驕れる非コミュとフレーム問題

まとめ
俺は他人とのコミュニケーションが苦手であり積極的ではない。その理由について考察する
自分が人間関係においてコミュニケーションが下手である主な要因として次の理由が考えられる
論理的な思考を主に用いる事に寄るフレーム問題の発生
論理パズルや数学などの正解の定義をコミュニケーションに持ち込む事
自分が人間関係に積極的でない理由
苦手だから
自己正当化の屁理屈

自分が人間関係においてコミュニケーションが下手である理由

論理的な思考を主に用いる事に寄るフレーム問題の発生
フレーム問題とは人工知能が現実世界で何かしようとした時に全ての出来事や動作と結果の関係性を検討する事で無限に演算をしなければいけない状況に陥る事である
フレーム問題 - Wikipedia
コミュニケーションは感覚的に行う場合(友人との雑談)と論理的に行う場合(事務的なやりとりや議論など)あるいはその両方が考えられる
俺の場合感覚的にコミュニケーションを行う能力が論理的にコミュニケーションを行う能力より低い(と自己評価している)
原因は感覚的なコミュニケーションを伸ばさなかったからだろう
そんな俺は感覚的に行うコミュニケーションを前にしても論理的な演算を「使う」。
感覚的な処理系統で扱うべき事項を前にしても論理思考の成功体験と現時点での感覚的処理と論理演算の感覚的な会話の処理成功率を比べて論理演算の方が勝っているからそれを「使う」
別に論理演算のみで全てのコミュニケーションをうまく処理出来るとしたら何の問題もない
しかし論理演算を用いた対処にはフレーム問題という限界が存在する。また演算すべき前提が不確定かつ膨大になってくると論理演算ではどうしようもなくなり論理演算の強化に対する「よりよいコミュニケーション」の投資効率はx:log(x)で下がっていく。
それでもコミュニケーションを感覚的に行わない。感覚的な能力を伸ばす方が効率がよく上限が無く一時的な「コミュニケーションの不成功」を体験してでも長期的には感覚的なコミュニケーション能力を磨く事がプラスになると分かっていても、だ。
完璧なまでにドツボにはまっている。実際にはハマってないけど自らハマってる感じだ。
さらに感覚的なコミュニケーションに論理演算を持ち込んだ時に一緒に持ち込んだのが「正解を求める姿勢」
論理パズル何かだと一つの正解がある。
多分感覚的なコミュニケーションに正解なんて無い
「AさんはDさんがいないタイミングでBさんとCさんがαという前提を知っている状態である事を知っている上でβという発言をしたので今の言葉にはγという意味が込められていてAさんが望みかつ俺が取るべき行動or言動はΩである」
これを論理パズルとして捉えてゴリゴリと論理演算を行って「正解」を導き出そうとする試みに意味はないんだと思う。議論なんかでは有用な前提を論理演算に掛けて正解を導き出すという考え方は日常会話中の前提のファジーさと膨大さに対して何も出来ない。随意筋の動きを逐一イメージする事で歩行しようとするようなもの

そういえば似たような言葉があったなと探してみたらばっちり同じ事を先に書かれていたw

常識や限界を定義すれば、それを覚えたらあなたは敗れるだろう。考えるんじゃない。感じるのだ、友よ。
teruyastarはかく語りき

論理的思考と、

感覚的思考は、

それぐらい情報量とその質が違うと思います。

正確でハッキリしてるのはむしろ論理的思考。

情報量は膨大だけど、ハッキリ言葉に表せない感覚的思考。

凡人が夢を叶えれないというのは、

テキスト情報で、HD動画を再生しようとするから

何十年もかかったり、あきらめたりするのかもしれません。
天才とは結局膨大な経験量のたまものではないか? - teruyastarはかく語りき

ここまで完璧に言い表されていると悔しいぐらいだ


http://www.lingr.com/room/HanaUsagi
驕れるの部分はこちらで

自分達あたりの世代が昔からの伝統や礼儀をぎりぎり受け継いでいる世代という思いこみ

ドイツの社会学者が発表した論文にあったんだけど、
数十カ国を調査した結果なぜか20代後半〜30代後半の年齢層の人間は

「自分達あたりの世代が昔からの伝統や礼儀をぎりぎり受け継いでいる世代だ。
これより下はどうもおかしくなってしまっている」

と考える癖があるらしい。面白いことに国が違っても民族が違っても
共通してそういう風に感じて発言するんだってさ。

もちろん、今現在だけの話というわけじゃなくて数十年前から繰り返し
「自分たちがぎりぎり礼儀を受け継いでいて〜」と言ってて
その次に20代後半〜30代後半になった世代も同じように
「自分たちがぎりぎり礼儀を受け継いでいて〜」と繰り返す、と。

社会に出て数年経って、周りを見る目が付いてきた頃に感じる
人類共通の感覚なのかもしれないね。
via:Uncategorizable logs — ドイツの社会学者が発表した論文にあったんだけど、...

世代間の違いと言うより年齢に与えられた社会的役割によって振る舞いが決定するという話
だが2chのVIPやニコニコ動画においてもその法則が見られる気がする
VIPで言うなら年齢ではなくてVIPに参加した時期(VIPがkuso機能を持ってた時から居ただとかもうVIP歴2年だとか)によって新参古参に分けられる
今後のVIPを憂うスレだのVIPルネッサンスだの馴れ合いスレに突撃するだの新参と古参について真面目だったり煽りながら議論をしている所を見てると上で引用しているような
「自分達あたりの参加時期の世代がVIPが面白かった時のVIPPERの精神やクオリティをぎりぎり受け継いでいる世代だ。
これより下はどうもおかしくなってしまっている」
という考え方を一定の割合で見た覚えがある
VIPという匿名空間でその現象が起きるならば外圧からそういうメンタリティになるのではなくて内面からの変化なんだろうか
まあソース無いけど