"私"は自分の目的とする精神構造を得ることが出来るのか?

  • 結論:無理


"私"の精神は目標に到達し得ない
現在の私が目標とする精神構造に"私"が到達した時には現在の私とは違う価値観と思考回路により「特定の精神構造を是とする事」を破棄しているか「現在の私には考えつかない理由により目指すべき精神構造を決定している」だろう
しかし"私"の精神構造の変化を捉えることは出来る。
"私"の精神構造の変化は漸近的に生じているので「私の目標とする精神構造が過去と比べて変化するか」によって逆説的に自身の精神構造の変化を測定しうると考えられる。

私の精神構造は物理的な肉体の構成と自身の属している文化的価値観や社会制度に深く決定づけられている。
私が珪素ベースの知的生命体だったら絶対に今と同じ意識は有していなかっただろうし、中世や23世紀に生きてたらガリレオに石をぶつけたり異教徒を人と思わず殺したり食肉文化の読み物を読んだだけで吐き気を催していたり有機合成食主義者だったりしただろう。
肉体の構造や自身の生まれた時代や場所によって私の精神構造というものがどうしようもなく決定されていることを私は了承する。
ガリレオに石をぶつけないのも異なる教義を信じる人を人間だと感じるのも牛肉を食べるのも植物を切り刻むのを残酷だと思わないのも私が時代に縛られていることの証左である。
では善き自分を追求する必要がどこにあるのだろう?

そんな物は無い。

理由など無いが私の頭の中の神経細胞の火花が閃く。
善くあれ、と