Reblogにおける短いテキストの扱われ方


ったくもー、「つぶやきブログ」批判のエントリについての再解説 - POP2*5を読んで


私は私の行動に対する完全な理由を説明する事は不可能だと考えている。他人の考えなど更に分からない。
だから誰かが
「Reblogを使ってるあなたたち(私も含む)はこのような理由でReblogを使ってるんですよ」
と言っても原理的にはそれを覆すことは出来ない。
だが私がTumblrなどでReblogされた短いテキストを頭の中でこのように扱っているのではないかと考えている。

  • テキストを鏡として使う

長文はそれ自体が文脈を持つため解釈の振れ幅が小さい。しかし1フレーズだけを切り取りReblogされたテキストはそれ自体がもつ文脈がほとんど無い。なのでそのフレーズを解釈しようとしたら自分の頭の中の既存の思考などからその意味を解釈しなければならない。長文を読むことを他者との事実や考え方をより正確にやりとりするための手法だとするとReblogを読むことは自分の頭の中身をのぞき込むための鏡となるのではないか、と思う。

  • テキストを刺激として使う

アインシュタインの名言集みたいな本のように短いフレーズを刺激として自分に作用させることに使う。短いテキストの方が背負う文脈が少なく尖っていて鋭い。

後、気に入った言葉をReblogするのが単純に楽しい、Webバージョンの本棚のようなコレクション要素と多少の他人に対する自分の見立ての自慢、など。
テキストを「他者との通信プロトコル」ではなく「鏡」や「刺激」として使うのは丹誠こめて作ったケーキをパイ投げに使うような行為なのかもしれない。刺激が欲しけりゃReblogなんぞやってないでチベットでもシリコンバレーでもどこでも行ってこいというのも正しいと思う。

結論:Reblogをやめて世界に出よ。