秋葉原通り魔事件に関して抱いた疑問

元々は秋葉原通り魔事件について何も書く気が無かったし「自分が秋葉原通り魔事件について無意識的に何かを書く気が起きない」のは何故かと言うのも考察せずにだらだらとネットをしていた


http://recently.sakura.ne.jp/wp/?p=41を読んでいて
通り魔事件を配信したという記事に対してコメント欄に不謹慎だとするコメントを読んで何か心にもやもやとしたよく分からない状態が生まれた
何がそのもやもやの原因なのかを考えた


多分

  • 今回の通り魔事件にネット上で関われば何らかの満足をこの通り魔事件から引き出す事になりそれがログとして残る

という認識が俺にあるのではないかということ


現場からストリーミングだろうがブログで考察を書こうがストリーミングした人をブログのコメント欄で叩こうがTwitterで話そうが
何らかの手法で通り魔事件にコミットしたら私たちは通り魔事件から何らかの"満足"を引き出してるって事じゃないか?
勿論テレビで報道を見たり人に事件の概要を聞いたり話したり新聞で見る事だって「通り魔事件から何らかの満足を引き出す行為」と言える
ネット上でコミットする事で「通り魔事件から何らかの満足を引き出す行為」のログが残ることを私は恐れたのだと思う


偽善的潔癖だなー、他のなにがしかの不幸について無数の満足を引き出してきたはずなのにそのうちの一つについて潔癖な態度を取るっていうのも「通り魔事件から何らかの満足を引き出す行為」、それを自認して自分の精神構造についてまた一つ考察が進んだとするのも「通り魔事件から何らかの満足を引き出す行為」、自分が自分の行動をメタ認知している事に気づくのも「通り魔事件から何らかの満足を引き出す行為」、
「通り魔事件から何らかの満足を引き出す行為」を行っている事を自認しているのも「通り魔事件から何らかの満足を引き出す行為」、以下無限退行、無限退行を認知する事も「通り魔事件から何らかの満足を引き出す行為」


「Ustで現場中継」だって「通り魔事件から何らかの満足を引き出す行為」だし、「Ustで現場中継した人を貶す」だって「通り魔事件から何らかの満足を引き出す行為」なのだから上記の行為と本質的に差は無いと考える
だって通り魔事件から何らかの満足を引き出しているんだから
この考え方はナイーブに過ぎるの?じゃあどんな考えが無神経な考え方なの?ちょうど良い考え方って何なの?
どこから許されないの?どこから許されるの?どこまで正しいの?どこから正しくないの?それを決めるのは誰?